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とくとくコーナー クイズに答えて素敵な賞品をもらおう!

2018年02月

『達人の言葉シリーズ21』

『この言葉を語った「達人」は?』

問題: 次の名言を語った人は1~3のどれでしょうか。

「いま、子供を叱れない、生徒を叱れない、部下を叱れない人がいる。何やってんの。叱ることが愛情だよ。」

1. 星野仙一
2. 仰木 彬
3. 大沢啓二

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■賞品:下記の通り
■回答:番号でお答えください
■締め切り:2018年03月10日 (土)
■発表:メールマガジン2018年03月25日号にて。

※受付期間を過ぎたもの、必要事項がすべて記入されていないものは無効となります。
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クイズの答え

正解… 1.星野仙一

解説
 今年の1月4日、膵臓癌で急逝した星野仙一さんは、1947年、岡山県倉敷市出身。倉敷商、明大をへて1968年、ドラフト1位で中日に入団しました。ドラフト前に1位の約束を受けたという巨人から指名を受けられなかったことで、以来、打倒・巨人に燃えた現役生活でした。闘志むき出しの投球で「燃える男」と呼ばれ、エラーで巨人選手が得点した際にはグラブをマウンドに叩きつけ悔しがりました。1974年には巨人のV10を阻んで中日が優勝、自身も沢村賞、最多セーブに輝きます。
 1982年に現役を引退。1986年のオフ、中日の監督に就任。現役時代と変わらぬ感情むき出しの采配で、のちに正捕手だった中村武志がテレビ番組で「殴られない日の方が少ない」と振り返るほどの鉄拳制裁で「闘将」と呼ばれました。その一方、これはと思った選手は使い続け、中村、立浪和義、山本昌などといった選手を育てていきました。就任3年目の1988年にはリーグ制覇。優勝会見で試合中に珍しく笑顔を見せたことを指摘されると「今日ぐらい笑顔で終わらなきゃばちが当たる」。
 1991年に監督を辞しますが、1995年オフに再び中日の監督に。しかしナゴヤドーム元年となった1996年には屈辱の最下位と苦しい戦い。97年には最愛の夫人を白血病で亡くすという辛い経験をします。それでも闘将はグラウンドで戦い続け、1999年には神宮球場で2度目のリーグ優勝を達成。優勝インタビューでは「選手をここまで信じてきてよかった。つくづく幸せな男だと思います」。
 2001年、5位と下位に沈んだチームの責任を取り、中日の監督を辞任。その年のオフに4年連続最下位と低迷していた阪神の監督に就任。初年度は4位に終わりましたが、2年目の2003年には金本知憲、片岡篤史、アリアスら移籍組、桧山進次郎、赤星憲広、井川慶ら生え抜き選手が見事に融合し、圧倒的な強さでリーグを制します。満員の甲子園で優勝を決めた後のインタビューで「このタテジマで、この甲子園で、みんなの前で胴上げされたかった」と喜びを語りました。
この年、健康上の理由により監督を辞任。阪神のオーナー付きシニアディレクター(SD)に就任。
2007年には北京五輪の野球日本代表の監督に就任。
2010年楽天の監督に就任しますが、シーズンを間近に控えた、2011年3月11日。ホームグラウンドの東北を震災が襲います。震災後の選手の不安定な心理状態もあり、1年目の順位は5位に。
「うちの球団は12球団一ボランティア精神が旺盛。試合の午前中、グループで被災地を回って、夕方にはゲーム。これが毎日の繰り返し。監督としては余力を残してゲームをという思いもあったが、選手、球団が一生懸命やっているのでストップはできなかった。この1年はしょうがないと思った」
 就任2年目は4位。そしてユニフォームを脱ぐ覚悟もした3年目、楽天は球団初のリーグ優勝、さらに日本一にも輝いたのです。自身にとっても選手、監督時代を含めて初めての日本一。本拠地・仙台での胴上げされた夜、飛び出したのが選手への労いの言葉でした。
「東北の子供たち、全国の子供たち、そして被災者のみなさんにこれだけ勇気を与えてくれた選手、褒めてやってください」
2015年からは楽天球団の副会長を務め、新人獲得などに尽力していました。息を引き取る直前まで「コーチ会議に出られるかな」と語り、最後の最後まで野球に情熱を燃やした人生でした。
【 当選発表 】
F.Rさん(電子情報処理科 1988年卒)
K.Mさん(ゲームCGデザイン科 2007年卒)
Y.Nさん(高度情報処理科 2017年卒)

賞品詳細

現在応募期間対象外です。