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とくとくコーナー クイズに答えて素敵な賞品をもらおう!
2020年03月
『達人の言葉シリーズ41』
問題: 去る2月11日に亡くなった元プロ野球選手・監督の野村克也さんの語った言葉はどれでしょうか。番号でお答えください。
1.「叱る」と「褒める」というのは同意語だ。情熱や愛情が無いと、叱っても、ただ怒られているというとらえ方をする。
2. 現実的には無理だとわかっていようが、「うちは優勝を狙います。それだけの戦力はある」と外に対して言える
のが、真の指導者なのだ。
3. チームプレーなんて考えなくていい。自分のために一生懸命プレーすればいい。結局それがチームのためになるんだから
1.「叱る」と「褒める」というのは同意語だ。情熱や愛情が無いと、叱っても、ただ怒られているというとらえ方をする。
2. 現実的には無理だとわかっていようが、「うちは優勝を狙います。それだけの戦力はある」と外に対して言える
のが、真の指導者なのだ。
3. チームプレーなんて考えなくていい。自分のために一生懸命プレーすればいい。結局それがチームのためになるんだから
■賞品:下記のとおり
■回答:番号でお答えくだい
■締め切り:2020年03月31日 (火)
■発表:メールマガジン2020年04月25日号にて。
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クイズの答え
前回の答え・・・1.
2.は落合博満さんの言葉
3.は仰木彬さんの言葉
解説
野村克也さんは、1935年6月29日京都府生まれ。3歳の時に父親を亡くし、母も病弱だったため、小学校1年生の頃から兄と新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをして生計を助けていました。貧しい生活から脱却したいとの想いから、当初は歌手や俳優を目指そうとしたこともありましたが、当時プロ野球の大スターだった赤バットの川上哲治さんや、青バットの大下弘さんに憧れ、野球選手を志すようになります。中学2年の時野球部に入り、すぐに4番・捕手に抜擢され活躍します。京都府立峰山高等学校に進学し、野球部に入りますが、バットを買う金もないために、一升瓶に水を入れて毎日素振りをしました。
峰山高等学校の野球部は地方大会で常に1回戦で敗退という弱小チームだったため、野村さんも全くの無名でした。しかし野村さんの才能を見抜いていた野球部の顧問は、プロ球団の監督に手当たり次第推薦状を送り、当時南海の監督だった鶴岡一人さんだけが返事をくれ、実際に試合を見に来てくれました。その試合で野村さんは、ランニングホームランを放ちます。
1954年テスト生としてその南海に入団。入団後の活躍は目覚ましく、入団4年目に、本塁打王を獲得。65年には戦後初の三冠王に輝きます。選手としての記録は、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、MVP5回、ベストナイン19回、ゴールデングラブ賞1回など、球史に残る成績をおさめました。
1970年プレーイングマネージャーとして南海ホークス監督に就任。以後、ロッテ、西武を経て、80年に45歳で現役を引退します。以後、90年ヤクルトの監督に就任、9年間で4度のリーグ制覇、3度の日本一に輝きました。99年から阪神の監督、2002年から社会人野球・シダックス野球部のGM兼監督を務め、06年東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任し、09年球団としては初めてのクライマックスシリーズ進出を果たします。2010年より、東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督。2020年2月11日、虚血性心不全で84歳の生涯を閉じました。
●野村克也さん語録
「若い時に流さなかった汗は、年老いて涙に変わる」
「褒めて育てる少年野球、叱って育てる大学・社会人、厳しく育てるプロ。プロは厳しくて当たり前」
「限界に打ちのめされたことのない人間に、可能性はない」
「失敗を乗り越える執念を持て。執念こそが、失敗を成功に変え、不可能を可能にする」
2.は落合博満さんの言葉
3.は仰木彬さんの言葉
解説
野村克也さんは、1935年6月29日京都府生まれ。3歳の時に父親を亡くし、母も病弱だったため、小学校1年生の頃から兄と新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをして生計を助けていました。貧しい生活から脱却したいとの想いから、当初は歌手や俳優を目指そうとしたこともありましたが、当時プロ野球の大スターだった赤バットの川上哲治さんや、青バットの大下弘さんに憧れ、野球選手を志すようになります。中学2年の時野球部に入り、すぐに4番・捕手に抜擢され活躍します。京都府立峰山高等学校に進学し、野球部に入りますが、バットを買う金もないために、一升瓶に水を入れて毎日素振りをしました。
峰山高等学校の野球部は地方大会で常に1回戦で敗退という弱小チームだったため、野村さんも全くの無名でした。しかし野村さんの才能を見抜いていた野球部の顧問は、プロ球団の監督に手当たり次第推薦状を送り、当時南海の監督だった鶴岡一人さんだけが返事をくれ、実際に試合を見に来てくれました。その試合で野村さんは、ランニングホームランを放ちます。
1954年テスト生としてその南海に入団。入団後の活躍は目覚ましく、入団4年目に、本塁打王を獲得。65年には戦後初の三冠王に輝きます。選手としての記録は、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、MVP5回、ベストナイン19回、ゴールデングラブ賞1回など、球史に残る成績をおさめました。
1970年プレーイングマネージャーとして南海ホークス監督に就任。以後、ロッテ、西武を経て、80年に45歳で現役を引退します。以後、90年ヤクルトの監督に就任、9年間で4度のリーグ制覇、3度の日本一に輝きました。99年から阪神の監督、2002年から社会人野球・シダックス野球部のGM兼監督を務め、06年東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任し、09年球団としては初めてのクライマックスシリーズ進出を果たします。2010年より、東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督。2020年2月11日、虚血性心不全で84歳の生涯を閉じました。
●野村克也さん語録
「若い時に流さなかった汗は、年老いて涙に変わる」
「褒めて育てる少年野球、叱って育てる大学・社会人、厳しく育てるプロ。プロは厳しくて当たり前」
「限界に打ちのめされたことのない人間に、可能性はない」
「失敗を乗り越える執念を持て。執念こそが、失敗を成功に変え、不可能を可能にする」
【 当選発表 】
M.Tさん 情報処理科(2011年卒)
N.Mさん コンピュータグラフィックス科(2014年卒)
F.Aさん ネットワークセキュリティ科(2019年卒)
M.Tさん 情報処理科(2011年卒)
N.Mさん コンピュータグラフィックス科(2014年卒)
F.Aさん ネットワークセキュリティ科(2019年卒)
賞品詳細
賞品1
「東京ディズニーランド 1dayパスポートペアチケット」を応募数20名毎に1組へ!
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